【長編コラム】Suica帝国の黄昏:2026年のオープンループ連合は、なぜJR東日本にとっての「黒船」なのか

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Suica帝国の黄昏:2026年のオープンループ連合は、なぜJR東日本にとっての「黒船」なのか

序章:変わりゆく改札の音

2025年10月29日、関東の鉄道業界に静かな、しかし地殻変動を予感させるプレスリリースが発表された1。東京メトロ、東急電鉄、京王電鉄、小田急電鉄、京浜急行電鉄など、首都圏の交通網を支える主要な鉄道・地下鉄事業者11社局が、共同事業協定を締結したという内容だ3。その目的は、クレジットカードやスマートフォンを使ったタッチ決済による後払い乗車サービスを、2026年春以降に相互利用可能な形で導入することにある4

これは単なる業界のアップデートではない。20年以上にわたり、JR東日本が築き上げてきた巨大な「Suica経済圏」という城壁に対し、競合他社が連合を組んで仕掛ける、周到に計画された戦略的行動である。彼らが導入するのは、特定のカードやアプリを必要としない、世界標準の「オープンループ」決済システムだ。これは、国内の利用者だけでなく、海外からの訪問者も、財布に入っているいつものクレジットカード一枚で、シームレスに関東の主要な鉄道網を乗りこなせるようになることを意味する4

本稿の主題は明確である。JR東日本は、Suicaという独自のクローズドな生態系を中心に、巨大で収益性の高い「壁に囲まれた庭(Walled Garden)」を構築してきた。しかし、この11社局連合がもたらすオープンでグローバルな標準化の波は、その壁を突き崩す脅威となる。いかに先進的であっても、独自の規格に固執することは、ますます相互接続が進む現代世界において、危険な長期戦略となりつつある。この連合は、日本の鉄道決済における「黒船」に他ならない。それは、避けることのでこない変革の時代の到来を告げる、外部からの強大な圧力なのである。

第1章:王座への道筋 – 日本の乗車券システムの歴史とSuicaの覇権確立

Suicaがもたらした革命の大きさを理解するためには、まず日本の鉄道乗車券システムが歩んできた長い道のりを振り返る必要がある。それは、一枚の厚紙の切符から始まり、自動化と電子化の波を経て、今日のICカード全盛時代へと至る壮大な物語である。

厚紙の切符から自動改札へ

日本の鉄道の歴史は、1872年(明治5年)の新橋-横浜間の開通と共に幕を開けた6。このとき、英国から導入された鉄道技術の一部として、乗車券システムも同時に持ち込まれた。それが「エドモンソン式」と呼ばれる、今日の切符の原型となる厚紙の乗車券であった7。以来、1世紀以上にわたり、物理的な切符が鉄道利用の唯一の証であり続けた。

当初は「硬券」と呼ばれる分厚い厚紙の切符が主流であり、駅員が改札鋏(かいさつきょう)で一枚一枚「入鋏(にゅうきょう)」することで、利用を証明していた7。この改札鋏の切り口の形「鋏こん(きょうこん)」は駅ごとに異なり、熟練した駅員は、その形を見ただけでどの駅で乗車したかを判別できたという7。これは、非常に労働集約的で、非効率なシステムであった。

時代が進むと、薄い紙で作られた「軟券」や、裏面に磁気情報を記録した磁気式乗車券が登場し、1960年代後半には自動改札機が導入され始める6。これにより、改札業務は大幅に効率化された。しかし、乗客は依然として、乗車のたびに券売機に並び、目的地までの切符を購入するという手間から解放されてはいなかった。ラッシュ時の券売機前の行列は、都市部の駅における日常的な光景であった。

2001年の革命:Suica帝国の誕生

この長年の課題に終止符を打ったのが、JR東日本であった。2001年11月18日、首都圏の424駅で、非接触ICカード乗車券「Suica」のサービスが開始された11。ソニーが開発したFeliCa技術を採用したこのカードは、改札機の読み取り部に触れることなく通過できる「タッチ&ゴー」という、それまでの常識を覆す体験を提供した14

Suicaの登場は、単なる乗車券の電子化にとどまらなかった。それは、人々の移動のあり方を根本から変えるパラダイムシフトであった。毎回切符を買う必要がなくなり、改札の通過速度は劇的に向上し、駅の混雑は大幅に緩和された。Suicaは瞬く間に普及し、日本のキャッシュレス社会の先駆けとなったのである15

さらにJR東日本の戦略が巧みだったのは、Suicaを単なる乗車券で終わらせなかったことだ。2004年には電子マネーサービスを開始し、駅のキオスクや自動販売機、コンビニエンスストアでの支払いを可能にした11。2006年には携帯電話で利用できる「モバイルSuica」を導入16。これにより、Suicaは乗車券という枠を超え、日常生活に不可欠な決済プラットフォームへと進化した。この多角的な展開こそが、後に「Suica経済圏」と呼ばれる巨大なエコシステムの礎となったのである。

領土の統一:2013年、交通系ICカード全国相互利用の完成

Suicaの成功を受け、JR西日本の「ICOCA」、私鉄・バス事業者の「PASMO」など、日本各地で同様の交通系ICカードが次々と誕生した17。当初は各エリアで閉じていたこれらのカードは、徐々に相互利用の範囲を広げていった。

そして2013年3月23日、日本の鉄道史における画期的な瞬間が訪れる。Suica、PASMO、ICOCAを含む全国10種類の主要交通系ICカードが、全国規模での相互利用サービスを開始したのだ18。これにより、利用者は手持ちの一枚のカードで、北海道から九州まで、日本中のほとんどの鉄道やバスに乗車できるようになった17

この「天下統一」は、国内の利用者にとって、この上ない利便性をもたらした。同時に、それはFeliCaという日本独自の技術規格をベースとした「クローズドループ」方式が、国内の交通決済市場を完全に制覇したことを意味していた。この時点において、Suicaを中心とするICカードの牙城は、盤石かつ攻め落とすことのできないものに見えた。

第2章:城壁の亀裂 – 「ガラパゴス」システムが抱える構造的限界

国内で絶対的な利便性を誇るSuicaシステム。しかし、その堅固な城壁も、視点をグローバルに移した途端、深刻な亀裂と脆弱性を露呈する。特に、急増するインバウンド観光客にとって、このシステムは利便性どころか、大きな障壁となっている。それは、単なる使い勝手の問題ではなく、「クローズドループ」というシステムアーキテクチャそのものが内包する、構造的な限界に起因している。

旅行者のジレンマ:改札で立ちはだかる壁

日本を訪れる外国人観光客が最初に直面するのが、Suicaを手に入れること自体の難しさだ。半導体不足を理由とした物理カードの販売停止は、この問題をさらに深刻化させた22。代替策として「Welcome Suica」のような旅行者向けカードも存在するが、販売場所が空港や主要駅の特定の窓口に限られており、機能も限定的である14

仮にカードを入手できたとしても、次なるハードルが待ち受けている。それは、日本円の現金で事前にチャージ(入金)しなければならないという、前払い式の制約である。クレジットカードからの直接支払いに慣れた多くの外国人にとって、これは極めて不便なプロセスだ。解決策となりうるモバイルSuicaも、その利用は日本国内仕様のスマートフォンにほぼ限定されており、海外から持ち込んだ端末では使えないケースがほとんどである23

そして、旅の終わりには、最後の不快な体験が待っている。カードに残った残高の払い戻しだ。これには、Suicaエリア内の「みどりの窓口」へ出向き、身分証明書を提示し、さらに220円の手数料を支払う必要がある22。この煩雑な手続きは、多くの旅行者にとって大きなストレスであり、日本の交通システムに対するネガティブな印象を残す一因となっている。

国内利用者の死角

日常的にSuicaを利用している国内のユーザーにとって、これらの問題は実感しにくいかもしれない。しかし、クローズドループシステムは、国内利用者に対しても、目に見えない負担を強いている。それは、Suicaという独自のデジタルウォレットを常に管理し、残高不足に陥らないよう気を配り続けなければならないという心理的コストである。我々の主要な金融資産(クレジットカードや銀行口座)とは完全に切り離された、独立した「財布」をもう一つ持ち歩いているに等しい。

このシステムの構造を分析すると、旅行者が直面する一連の問題(カードの入手、チャージ、払い戻し)は、個別の不具合ではなく、「クローズドループ」というアーキテクチャが必然的にもたらす特性であることがわかる。クローズドループシステムは、その定義上、利用者が取引を行う前に、まず事業者(この場合はJR東日本)が発行する独自のトークン(Suicaカード)を入手し、そこに価値をチャージ(入金)することを要求する。この「時間」と「手間」という参入コストこそが、システムの根本的な摩擦点なのだ。

2000年代初頭、この仕組みは紙の切符に比べて革命的な進歩であった。しかし、クレジットカードのタッチ決済のように、自身の銀行口座から直接シームレスに支払いが完了するサービスが当たり前となった2020年代において、この「事前準備を要する」というアーキテクチャは、時代遅れの負債となりつつある。

つまり、Suicaが抱える「ガラパゴス」問題の本質は、単に世界の標準と異なるという点にあるのではない。それは、世界が「根本的に利便性が低い」と判断し、積極的に脱却しつつある古いパラダイムの上に構築されているという、より深刻な問題なのである。

第3章:オープンループの波 – 世界の乗車スタイルと、関東がそれに加わる理由

Suicaが国内で築き上げた閉じた生態系の外では、世界の公共交通決済は全く異なる方向へと進化を遂げていた。それが「オープンループ」と呼ばれる、グローバル標準に基づいた新しい潮流である。そして今、その波が関東の鉄道網にも押し寄せようとしている。

新しい標準の定義:オープンループ vs. クローズドループ

この二つのモデルの違いを理解することが、現在の地殻変動を読み解く鍵となる。

クローズドループ(SuicaやロンドンのOysterなど):
交通事業者が自ら決済トークン(専用ICカード)を発行し、カード内の価値(残高)を管理し、自社のネットワーク内で取引を完結させる独自のシステム24。利用者はまず、その事業者専用の「会員証」を手に入れ、お金を預ける必要がある。

オープンループ(クレジットカードのタッチ決済/EMV):
VisaやMastercardといった、既存の国際的な決済ネットワークをそのまま利用する開放的なシステム5。利用者は、すでに持っているクレジットカードやデビットカード、あるいはそれらが設定されたスマートフォンをそのまま改札機にかざすだけでよい。交通事業者は、その広大な決済ネットワーク上の「加盟店」の一つに過ぎない24

ロンドンの先例:いかにして「コンタクトレス」は地下鉄を征服したか

オープンループモデルの優位性を最も雄弁に物語るのが、ロンドン交通局(TfL)の事例である。TfLはかつて、Suicaと同様のクローズドループ型ICカード「Oysterカード」を運営していた。しかし、2014年にクレジットカード等による非接触決済(コンタクトレス決済)を導入して以降、利用者の行動は劇的に変化した26

データはその変化を明確に示している。2022年までに、ロンドンの公共交通における都度払い(Pay as you go)利用のうち、コンタクトレス決済(物理カードおよびモバイル)が占める割合は約73%に達し、かつての主役であったOysterカードのシェアは急落した27。特にモバイル決済の成長は著しく、現在ではコンタクトレス決済による地下鉄利用の3分の1以上を占めている27

このシフトを駆動した最大の要因は、圧倒的な「利便性」である。乗客は、もはや7ポンドのデポジットを払って専用のOysterカードを購入する必要も、残高を気にしてチャージする手間もなくなった29。利便性という価値は、未登録のOysterカードが持つわずかなプライバシー上の利点を凌駕する、強力な動機となったのである28

事業者側にも大きなメリットがあった。TfLにとって、オープンループへの移行は、Oysterカードの発行や現金管理といった従来のシステム運営にかかる間接費を、実に30%も削減する効果をもたらした32。この強力な財務的インセンティブは、世界中の交通事業者がロンドンに追随する大きな理由となっている。

関東連合の戦略

今回発表された関東11社局の取り組みは、この世界的に成功が証明されたロンドンモデルを、戦略的に採用するものである。彼らは車輪の再発明をするのではなく、すでに確立された勝ち筋に乗ろうとしているのだ。

その技術的基盤となるのが、三井住友カードが提供する公共交通機関向け決済プラットフォーム「stera transit」である4。このシステムは、Visa、Mastercard、JCB、American Expressなど、主要な国際決済ブランドのすべてに対応する予定であり、国内利用者だけでなく、世界中からの旅行者が、何の設定も必要とせずに即座に利用できる環境を提供する3。これは、最初からグローバルな利用を前提とした、「Born Global」なシステムを構築するという明確な意志の表れである。

表:改札の覇権争い:直接対決
二つのシステムの技術的、戦略的な違いを明確にするため、以下の比較表にその要点をまとめる。この表は、クローズドループシステムが特定の利用者(国内の日常的な通勤・通学者)に最適化されている一方で、オープンループシステムがより広範な利用者層と事業者自身に大きな利益をもたらすことを示している。

特徴 クローズドループ・システム (例: Suica) オープンループ・システム (例: クレジットカード・タッチ決済)
決済トークン 事業者独自のICカード (Suica, PASMO) 標準的なクレジットカード、デビットカード、スマートフォン
入手方法 専用カードの購入・入手が必須 新規カード不要。財布の中のカードをそのまま利用
支払い方式 前払い(事前チャージが必須) 後払い(クレジットカード口座から直接引き落とし)
日常利用者にとって 利点: 処理速度が極めて速い (FeliCa)。
欠点: 残高管理の手間。
利点: 残高管理が不要。
欠点: タッチ時の速度がわずかに遅い。
訪日観光客にとって 欠点: 大きな障壁(入手、チャージ、払い戻しの手間)。 利点: 到着後すぐにシームレスな利用が可能。準備不要。
鉄道事業者にとって 利点: データや手数料の完全な管理。
欠点: 高い運営コスト(カード発行、現金管理など)。
利点: 運営コストの低減。
欠点: 外部決済網への依存、決済手数料の発生。
エコシステム 囲い込み型(JRE POINTなど) 開放型(グローバルな金融・ポイントプログラムと連携)
改札の覇権争い:Suica(クローズドループ) vs クレジットカード(オープンループ)

第4章:Suicaのジレンマ – 無敵の速度 vs. 止まらない変化

オープンループ化の波が押し寄せる中、JR東日本がSuicaの牙城を守るための最強の論拠、それが「速度」である。しかし、その絶対的なアドバンテージも、市場全体の変化と自社の未来戦略との間で、深刻な矛盾をはらみ始めている。

「0.2秒の壁」という切り札

JR東日本がSuicaの優位性を主張する際の核となるのが、その圧倒的な処理速度だ。Suicaが採用するFeliCa技術は、改札機にタッチしてから処理が完了するまで、わずか約0.2秒という驚異的なスピードを誇る32。この仕様は、1日の乗降客数が300万人を超える新宿駅のような、世界で最も混雑する駅のラッシュアワーを滞りなく処理するために、必然的に求められた性能であった。

対照的に、クレジットカードのタッチ決済で用いられるEMVコンタクトレス(NFC Type A/B)は、構造的に処理速度が遅く、トランザクションには0.3秒から0.5秒程度の時間を要する36。コンマ数秒の違いは些細に聞こえるかもしれないが、何百万人もの乗客が通過するラッシュ時には、無視できない滞留を引き起こす可能性がある。実際に、EMV対応改札では一瞬の立ち止まりが必要になるという利用者の報告や検証動画は数多く存在する38

しかし、この「速度」という論拠は、絶対的な技術的障壁というよりも、戦略的な「燻製ニシンの虚偽(Red Herring)」、つまり、本質的な議論から目を逸らすための口実である可能性が浮かび上がってくる。その理由は、今回オープンループ化に踏み切った11社局連合にある。彼らが運営する東京メトロや東急電鉄の渋谷駅、東武鉄道の池袋駅なども、JR東日本の主要駅に匹敵する、極めて乗降客数の多いターミナル駅である。もし彼らが、2026年までに「stera transit」のような最新のオープンループ技術が自社のラッシュアワーに耐えうると判断したのであれば、「速度が遅いから導入できない」というJR東日本の主張の根幹が揺らぐことになる。

事実、stera transitのような最新の交通向け決済ソリューションは、単なるオンライン取引ではない。改札通過時にはまずオフラインでカードの真正性を高速で認証し、その裏でクラウドサーバーと通信を行うといった並列処理技術を駆使することで、改札での遅延を最小限に抑える工夫が凝らされている35。速度差は依然として存在するものの、その差は縮小しており、他の主要事業者は、オープンループがもたらす計り知れない便益と引き換えに、その差を許容可能と判断したのである。これは、JR東日本が「速度」を盾にしている真の理由が、純粋な技術的問題ではなく、自社の戦略的・経済的利益の保護にあることを示唆している。

より深い堀を築く:「Suica経済圏」こそが真の要塞

JR東日本が抵抗する本当の理由は、技術ではなくビジネスモデルにある。彼らが守っているのは単なる決済カードではない。それは、Suicaを核として構築された、広大で統合された「経済圏」そのものである。

JR東日本の中長期ビジネス成長戦略「Beyond the Border」では、Suicaとポイントサービス「JRE POINT」、きっぷ予約サイト「えきねっと」、そしてMaaS(Mobility as a Service)と呼ばれる次世代交通サービスを緊密に連携させ、顧客を自社エコシステム内に深く取り込む戦略が明確に打ち出されている42

オープンループ決済を導入することは、この堅固な要塞に風穴を開けることを意味する。それは、顧客の貴重な決済データをクレジットカード会社に明け渡すことであり、利用者がJRE POINTを介さずにサービスを利用することを許容することであり、Suica経済圏の強力なロックイン効果を弱めることに他ならない。これは、数十億、数百億円規模のビジネスモデルに対する直接的な脅威なのである。

戦略的矛盾:JR東日本の未来構想が、現在の主張を自己否定する

さらに深刻なのは、JR東日本が掲げる未来のビジョンが、皮肉にも現在のSuica固執の論理を内部から崩壊させているという点だ。現在、JR東日本がSuicaの優位性として主張する技術的根拠は、FeliCaチップが持つハードウェア上の利点、すなわちカード内部での超高速処理能力にある。

しかしその一方で、JR東日本は長期的な構想として、サーバー側で情報を一元管理する「新Suica(仮称)」や、スマートフォンの位置情報と連携して改札そのものをなくす「ウォークスルー改札」の実現を目指していると公表している38

これらの未来のシステムは、その性質上、必然的に「サーバーセントリック」である。つまり、個々のカードではなく、中央のシステムが利用者を識別し、運賃を計算・決済する仕組みだ。これは、改札機が単なる読み取り機として機能し、頭脳(ロジック)がサーバー側に存在するオープンループシステムのアーキテクチャと、概念的に全く同一である。

ここに、深刻な戦略的矛盾が生じる。JR東日本は、自らが目指す未来のシステムにおいては不要となるはずの技術(FeliCaのオンカード処理能力)を根拠に、現在の市場の変化に抵抗しているのだ。もし未来がサーバーベースで改札のない世界であるならば、FeliCaのコンマ数秒の処理速度というアドバンテージは、その意味を失う。彼らの長期戦略は、期せずして、現在抵抗しているオープンループシステムの設計思想の正当性を証明してしまっているのである。

結論:孤立か、統合か

JR東日本は今、まさにパーフェクトストームの渦中にいる。世界的にその価値が証明された公共交通決済の技術標準(オープンループ)32、その標準を採用して結束した強力な国内競合連合の出現1、そしてシームレスな利便性を求めるという、後戻りのできない利用者意識の変化47。これらすべての力が一点に収束し、Suica帝国の城壁に激しく打ち付けている。

この状況は、経営学でいう「イノベーターのジレンマ」の典型例である。JR東日本が持つ現在のSuicaシステムは、技術的に卓越しており、極めて高い収益性を誇る。しかし市場は、ある一つの指標(速度)ではわずかに劣るかもしれないが、他の多くの指標(利便性、国際性、運営コスト)で優越する、新しいパラダイムへと移行しつつある。過去の成功体験が、未来への適応を阻害する最大の要因となりかねないのだ。

本稿の結論は、序章のテーゼに回帰する。オープンで相互接続された現代世界において、独自の生態系の周りに高い壁を築き続けることは、グローバルな標準への橋を架けることに比べて、脆弱な長期戦略である。競合他社による2026年のオープンループシステム導入は、日本の交通決済市場における決定的な変曲点となるだろう。

JR東日本がこの変化にどう対応するか。それは、Suica帝国がこの新しい時代に適応し、さらなる進化を遂げるのか、それとも戦略的陳腐化という、緩やかで、しかし威厳ある衰退の道を歩み始めるのかを決定づけることになる。もはや、その選択は単なる技術論争ではない。それは、間違いなく「オープン」な方向へと向かっている、モビリティそのものの未来を賭けた、戦略的な決断なのである。

出典番号
[1] https://www.afpbb.com/articles/-/3605987
[2] https://www.excite.co.jp/news/article/Dprp_121365/image/3/
[3] https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/news/subway/2025/sub_p_2025102912268_h.html
[4] https://www.tokyu.co.jp/company/news/detail/59386.html
[5] https://www.fingo.co.jp/column/%E6%B1%BA%E6%B8%88%E7%AB%AF%E6%9C%AB%E5%9F%BA%E7%A4%8E%E7%9F%A5%E8%AD%98%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0/%E9%A7%85%E3%81%AE%E6%94%B9%E6%9C%AD%E3%81%A7%E5%BA%83%E3%81%8C%E3%82%8B-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%B3%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97-%E6%96%B9%E5%BC%8F%E3%81%A8%E3%81%AF/
[6] https://cdn.hankyu-app.com/content/article/2024/article_10.html
[7] https://www.haguruma.co.jp/top/news/view/630
[8] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E8%BB%8A%E5%88%B8
[9] https://g.kyoto-art.ac.jp/reports/1457/
[10] https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_4/13-16.pdf
[11] https://www.jreast.co.jp/press/2015/20151202.pdf
[12] https://www.jreast.co.jp/press/2001_1/20010904/
[13] https://trafficnews.jp/post/112684
[14] https://ja.wikipedia.org/wiki/Suica
[15] https://forbesjapan.com/articles/detail/75041
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[17] https://bunshun.jp/articles/-/61127
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[20] https://www2.nec-nexs.com/supple/autonomy/column/nomura/column125.html
[21] https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%A4%E9%80%9A%E7%B3%BBIC%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E5%85%A8%E5%9B%BD%E7%9B%B8%E4%BA%92%E5%88%A9%E7%94%A8%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9
[22] https://livejapan.com/ja/article-a0005219/
[23] https://picks.goandup.jp/easy-travel-for-foreigners-take-the-train-with-suica-b/
[24] https://pcireadycloud.com/blog/2022/12/14/4539/
[25] https://www2.nec-nexs.com/supple/autonomy/column/nomura/column100.html
[26] https://en.wikipedia.org/wiki/Oyster_card
[27] https://tfl.gov.uk/info-for/media/press-releases/2022/october/new-analysis-shows-that-pay-as-you-go-with-mobile-on-the-tube-now-more-popular-than-before-the-pandemic
[28] https://blogs.lse.ac.uk/businessreview/2024/01/02/what-londons-oyster-cards-reveal-about-central-bank-digital-currencies/
[29] https://kakioki.mond.jp/2025/01/08/europe-4/
[30] https://www.londontoolkit.com/london-travelcard-v-oyster-card-v-contactless-card/
[31] https://wise.com/ie/blog/oyster-vs-contactless-card
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[34] https://kakakumag.com/money/?id=20236
[35] https://www.itmedia.co.jp/mobile/spv/2208/09/news117.html
[36] https://virtuspayment.com/column/%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%89%E3%81%AEvisa%E3%81%8C%E3%80%8C%E3%82%BF%E3%83%83%E3%83%81%E6%B1%BA%E6%B8%88%E3%80%8D%E3%81%A7%E4%BA%A4%E9%80%9A%E6%A5%AD/
[37] https://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/series/suzukij/1430443.html
[38] https://www.j-cast.com/2025/02/03501089.html?p=all
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[42] https://www.travelvoice.jp/20240605-155753
[43] https://www.irwebcasting.com/20200917/2/32aa58c717/media/20200917_jreast_ja_dl.pdf
[44] https://www.chisou.go.jp/tiiki/kokusentoc/supercity/supercityforum2019/190629_shiryou_10_02.pdf
[45] https://www.jreast.co.jp/press/2018/20190314.pdf
[46] https://toyokeizai.net/articles/-/693810
[47] https://www.cr.mufg.jp/mycard/benefit/24101/index.html

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